▽いどがわ・いこ 1987年兵庫県出身、県内在住。2010年に関西学院大学社会学部を卒業後、県内の高校に国語教師として赴任し、教職と並行して詩作を始めた。18年に作品を第1詩集「する、されるユートピア」にまとめ、翌年に中原中也賞を受賞。21年には小説集「ここはとても速い川」で野間文芸新人賞を受賞し、23年1月に「この世の喜びよ」が芥川賞に選ばれた。

自分膨らます出会い重ねて
作家・詩人 井戸川射子さん

今年1月に発表された第168回芥川賞に、人の記憶と日常が交差する様子を温かな視線で描いた「この世の喜びよ」が初ノミネートで選ばれた。国語教師として高校の教壇に立ちながら、執筆活動を続けてきた。作品のテーマや表現方法には、大学時代に社会福祉を学んだ経験も生かされている。「たくさんの影響を受け、大人へと成長する大学時代。いろんなものに触れて、自分を膨らませてほしい」と話した。

社会福祉士実習が小説の素地に

―なぜ関西学院大学に。
 両親ともに関学出身で、大学時代に出会って結婚したそうです。私も幼少期から両親に連れられて、西宮上ケ原キャンパスに出掛けていました。中央芝生で遊んだり食堂でご飯を食べたり、とても身近な場所だったので自然と進学を希望しました。  社会学部の社会福祉学科(現・人間福祉学部)に進んだのは、祖父を亡くした高校3年のときの経験から。祖父が入院中、家族が社会福祉士に書類の手続きから精神面までさまざまな相談に乗ってもらうのをそばで見て、福祉って必要だな、学びたいなと思いました。

―どんな学生生活でしたか。
 授業で印象に残っているのは、ゼミで死生学を学んだこと。例えば「家族」「健康」「お金」…と、自分にとって大切なものを紙に書き、死を目前にしたとして紙を1枚ずつ破っていく。そんな研究テーマがあって、途中で泣き出してしまう学生もいました。大学時代ってエネルギーに満ちあふれて生死とはかけ離れた時期と思っていましたが、「死」を通して「生」を見つめ、大事なものに気付くことができて貴重な経験でした。  勉学以外では、自分の幅を広げよう、充実させようと必死でした。アルバイトをいくつも掛け持ちしたり、ボランティア活動をしたり。ダンスと格闘技を織り交ぜたブラジル発祥の「カポエイラ」のサークルにも所属していました。みんなで輪になって踊ったのは楽しい思い出です。

巫女のアルバイトをしていた学生時代の井戸川射子さん

―国語教師を志した理由は。
 私は自我が芽生えるのが遅く、将来について周囲から尋ねられれば「父と同じ教師かな」と無難に答えるなど、茫洋(ぼうよう)と生きてきました。いよいよ就職活動をする年齢になり、初めは企業の説明会にも参加していましたが、就活中に「40人の生徒と1年間じっくり関われる教職って素晴らしい」と気付いて教師を目指すことにしました。社会学部ですが文学部の授業を履修して、国語科の教職課程を無事取得することができました。

―大学時代の経験が現在に生きていますか。
 向き合うのが、自分の中に問いかけるのがしんどいようなテーマもたくさんありましたが、福祉を学んで本当に良かったと思います。社会福祉士の実習は児童養護施設に泊まり込みで行い、大変さを抱えながら寄り添い、みんなで楽しく今ひとところで過ごそうとする、すごく優しい場所だと感じました。そのときの経験が「ここはとても速い川」という小説に生きています。


生き生きとした小説を追求

―教職に就き、作家活動を始めるまでは。
 幼い頃から軽い読み物は読んでいましたが、文学部の出身ではないので読書量の少なさを引け目に感じていました。だから高校の国語教師になってから国語便覧を何回も読み直して覚え、便覧に載っている本をいろいろ読みました。柳美里さんの「フルハウス」、多和田葉子さんの「ペルソナ」で「純文学って芸術なんだ」と感動してからは、純文学ばかり選ぶようになりました。  教師になりたての頃はまだ現代詩を教える授業があって、それがすごく難しかった。だから自分で詩をつくったら少しは分かるかなと思ったのが詩作を始めたきっかけです。ところが詩の内容が実体験と思われて書きにくくなったので、小説を書き始めたというわけです。

―近況と今後の目標を。
 芥川賞受賞はとてもうれしいです。産休育休中に書いた「この世の喜びよ」は、誰かに見守られたいという思いから主語を「わたし」ではなく「あなた」にし、書くことが自分自身のカウンセリングになることを実感しました。自分ならではの表現というのを模索して、小説を生き生きとさせることを追求したいです。これからもいろんな書き方にチャレンジしてみたいし、もっと言葉を上手に使えるようになりたい。「今日は2ページ書けた」「物語をちゃんと終わらせることができた」というように、一歩一歩前へ進めたらと思っています。3月末で教師を退職したので、これからはとことん書くことに向き合っていきます。

第168回芥川賞受賞作品「この世の喜びよ」

―最後に高校生へメッセージを。
 私はかつて文章を書くのが苦手でしたが、作家になった今は書くことがすごく楽しいです。だから「得意」や「好き」が今はなくても、いつだって見つかるよ、と高校の教え子たちにも伝えてきました。とはいえ、大学時代は周囲の人々から影響を受けて大人へと成長できる、またとない時間。いろんなものに触れて、知って、「得意」や「好き」につながるたくさんの出会いをしてほしいです。


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